永正十二年(1515)八月日付の「鶴林寺文書」に
粟津(加古川市加古川町)の記録がある。
粟津村は、1515年には存在していた。しかし、それは村の始まりではない。記録にはないが粟津村の歴史は、はるか昔にさかのぼると思える。
想像を交えて書いてみたい。
まず、粟津を「粟」と「津」に分けて考えてみる。
「粟」であるが、「大化の改新」(645)の以後、
現在の播磨町から
平岡町いったいは「粟々の里(あわわのさと)」と呼ばれ、
『風土記』には「コリメが、この野を耕して粟を植えた。
そのため「粟々の里」といった・・・」と書いている。
粟の生産が盛んな土地であったのかもしれない。
石見完次氏は、粟津の「アワ」は湿地帯で池沼の多いところの意味であると指摘されている。
石見氏の説の方が説得力があるのかもしれない。粟津には「富家(フケ)」と言う小字がある。
これは湿地帯を意味している。
一方「津」は泊・港を意味する。粟津は旧河道の近くにある。海の港とも考えられるが、
海から少し入った港の方が可能性は大きい。
図をみてほしい。粟津弥生遺跡が加古川東高等学校の南東に広がっていることが
確認されている。
この遺跡は昭和56年、加古川駅〜市役所の新道の工事中に発見された。
つまり、2.000年ほど前に、粟津には既に人が生活しており、しかも、
稲作をはじめていたのである。
稲作は塩を嫌う。既にこの地は内陸部に位置していたのだろう。
粟津村がはじまった時期の確かな記録はないが、今日のところは、
「粟津村は古い歴史を持つ村である」と言うことにとどめておきたい。
*●は弥生遺跡、『加古川市史(第一巻)』参照
- ジャンル:
- ウェブログ