加古川町内昭和25年頃の航空写真

国土地理院HPより

ひろかずのブログ

 加古川市・高砂市・播磨町・稲美町地域の歴史探訪。
 かつて、「加印地域」と呼ばれ、一つの文化圏・経済圏であった。

加古川町探訪:粟津(1)
2007-01-05 08:28:33 |  ・加古川市加古川町

32b7356c_1  永正十二年(1515)八月日付の「鶴林寺文書」に
   粟津(加古川市加古川町)の記録がある。

粟津村は、1515年には存在していた。しかし、それは村の始まりではない。記録にはないが粟津村の歴史は、はるか昔にさかのぼると思える。

  想像を交えて書いてみたい。

  まず、粟津を「粟」と「津」に分けて考えてみる。

  「粟」であるが、「大化の改新」(645)の以後、
  現在の播磨町から
  平岡町いったいは「粟々の里(あわわのさと)」と呼ばれ、
 『風土記』には「コリメが、この野を耕して粟を植えた。
  そのため「粟々の里」といった・・・」と書いている。

  粟の生産が盛んな土地であったのかもしれない。

  石見完次氏は、粟津の「アワ」は湿地帯で池沼の多いところの意味であると指摘されている。

  石見氏の説の方が説得力があるのかもしれない。粟津には「富家(フケ)」と言う小字がある。
  これは湿地帯を意味している。

  一方「津」は泊・港を意味する。粟津は旧河道の近くにある。海の港とも考えられるが、
  海から少し入った港の方が可能性は大きい。

  図をみてほしい。粟津弥生遺跡が加古川東高等学校の南東に広がっていることが
 確認されている。
 この遺跡は昭和56年、加古川駅〜市役所の新道の工事中に発見された。

  つまり、2.000年ほど前に、粟津には既に人が生活しており、しかも、
 稲作をはじめていたのである。
  稲作は塩を嫌う。既にこの地は内陸部に位置していたのだろう。

  粟津村がはじまった時期の確かな記録はないが、今日のところは、
 「粟津村は古い歴史を持つ村である」と言うことにとどめておきたい。

*●は弥生遺跡、『加古川市史(第一巻)』参照

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加古川町探訪:粟津(2)・条里制

2007-01-06 09:12:46 |  ・加古川市加古川町

A94f1d41_1    奈良時代、中央・地方の政治の仕組みも整った。
   地方には国司・郡司・里長等の地方官が置かれた。

    これら 地方官の主な仕事は、百姓から税(米など)を
     確実に徴収することだった。

 そのために政府は、土地制度を整備した。これが、
  条里制(じょうりせい)である。

  その仕組みは下図のように六町四方(約43.2ha)の
   大区画を縦横6等分、
 つまり36の小区画に分け、それに一の坪、二の坪・・・三十六の
  坪のように 番号をつけた。

  右図の「加古川河口部の条里制」にある番号は小字に残る「坪番号」である。

6d72813  加古川の条里制について『加古川市史(一巻)』から一部を引用したい。

   ・・・・(加古川東岸の条里制は)加古川町大野地区の平坦地から美乃利・溝口・平野・北在家・粟津・木村・西河原・友沢・備後・南備後・稲屋、尾上町今福・養田・長田・安田・池田・口里、野口町坂元・良野・長砂、別府町新野辺にかけて広がる。

   北在家付近では、市役所庁舎を中心にした市街地として区画事業に現在は遺構がみられなくなっていたり(する)・・・

  奈良時代、加古川市の中心部では条里制が発達していた。

  粟津にも整然とした田畑が広がっていた。当然、そこには人が住み、集落があった。

  とすると、粟津に集落が出来たのは奈良時代としてよいのかもしれない。もちろん、
  現在の広い集落ではなく、もっと狭い地域を指していたであろう。

  それぞれは、カゲノキ・ハッペ・カサハチ・マルコシ・フケ・ウマアライ・カモノシタ・ナカザイケ・
  ノリキ・カニガセと呼ばれていたのかもしれない。この部分は、若干怪しげな説である。
  (ウマハチ等は粟津の小字)

  なお、カサハチのハチのは条里制の「八の坪」 のことと思われる。

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